浅見絅斎書院

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近江国(現滋賀県高島市)に生まれる。はじめ医者を職業としたがやがて山崎闇斎に師事し、後世、闇斎門下の俊英3人、すなわち崎門三傑の一人に数えられる。後年に至って、闇斎の垂加神道の説に従わなかったために疎遠となった。闇斎の死後は、神道にも興味を示すようになり、闇斎の所説を継述するに至った。門下に、若林強斎(守中霊社)・山本復斎(守境霊社)等がいる。その尊王斥覇論は徹底しており、関東の地に立ち入ることはなく、終生、諸侯の招聘を拒み在野にあった。

主著『靖献遺言』(せいけんいげん)は、1684年から1687年にかけて書かれた。屈原、諸葛孔明、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因及び方孝孺の8名の評伝の形を取っており、幕末のいわゆる志士たちに大きな影響を与えた。

浅見絅斎先生肖像



・生い立ち

 浅見絅斎先生は、名は安正、字名を重次郎、号を絅斎という。

江戸時代のはじめ、承応元年(1652年) 8月13日新旭町太田の浅見道斎の次男に生まれた。幼い時から大志を抱き、学問を好んだので、父の道斎は、兄の道哲と共に医学を学ばせていた。

 そして、立派な名のある人にするために、当時の優れた先生や、大家とこの二人を交わらせ、そのための費用は少しも惜しまなかった。しかし、なかなか意にかなう師の出会えなかったが、たまたま

山崎闇斎に会い、この人こそ長い間待ち望んだ師であると感激し、

心から敬服し、学問の道に努力を傾注することとなった。




・人となり

 崎門で勉学を学んだ絅斎は、やがて錦陌講堂(キンパクコウドウ)

絅斎の家(錦小路高倉西入ル)で弟子を教えた。その教育は、師の闇斎と同じく厳格そのものであった。また、自分に対しても極めて厳しく、出世栄達を求めることはしなかった。

 つまり、幕府や大名に仕え俸禄をもらうことをせず、従って生活は大変貧しく、いわゆる清貧に甘んじた。

ある年のこと、どうしても年の瀬がが越せないまでに立ち入ったので、門下の若林強斎が見るに見かねて、母が縫って送ってくれた正月衣を金にかえて、絅斎の正月費用にと差し上げた。

 また、なけなしのお金で餅を買って絅斎に届けるとなど、本人により門弟は気をもむ始末で、絅斎は「お前はまだ餅を買う位の余計なお金があるからまだましだ。」と言いながら、さも旨そうに餅を食べたという。

このように、赤貧の中でも学問に心血を注いだ強い意志がうかがわれる。

 

 

錦陌構造想像図

大丸京都店裏側にあった

 

山崎闇斎肖像


若林強斎肖像



絅斎書院保存会

絅斎書院


絅斎書院は大田神社参道の西側にある。

旧高島郡町村の拠金を主体に、一般の有志の寄付により

大正13年4月13日に落成、浅見絅斎先生の御霊を祀っている。

 

主な行事

・4月に書院祭典・保存会総会を齋行

・11月京都東山の絅斎先生墓碑へ参拝

 

絅斎先生墓碑


浅見絅斎杯グランドゴルフ大会